Illuminate Journey – 3

 あのストリートミュージシャンと出会った日から、愛夏はCafé Paradeからの帰りに時間を見つけては、彼女が演奏する場所へと足を運ぶようになった。
 SNSもチェックした。春風千晴。ギターと歌が好きな高校生で、学校に通いながらもときどき路上で歌っている。カバー曲のほかにオリジナルソングも作っているようで、その歌は動画投稿サイトでも聞くことができた。
 彼女の何に惹かれているのか、愛夏はまだうまく言葉にすることができない。けれども、彼女の歌を聞くたびに、歌詞と歌声から溢れた優しさが、愛夏自身の心の何かと共振しているように感じた。
 運命的な出会いかもしれない。
 違う場所で生まれ育ち、違う人生を歩んできたのに、ある日、ふと同じ空の下、ひとつの街で出会う。勝手にそんなことを感じていた。

「ねえ」
 ある日、歌を聞き終わり帰ろうとした愛夏は、千晴に声をかけられた。
「いつも聞きに来てくれてるよね」
「は、はいっ」
「ありがと。嬉しいよ」
 ギターをケースに片づけながら、千晴はにっと八重歯を見せて笑った。
「あの、オリジナルソング、私、好きです」
 どくん、どくん、と鼓動が高鳴るのを感じながら、愛夏が言う。千晴は一瞬きょとんとしたあと、さらに嬉しそうに笑った。
「『イルミネート・ジャーニー』?」
「そう、それっ」
「あの曲、とくに思い入れ強いから、好きって言ってくれて嬉しい」
 アンプを台車に乗せ、ギターケースを背負った千晴が愛夏を見る。
「知ってると思うけど、私、春風千晴」
「灯里愛夏です」
 愛夏がぺこりと頭を下げる。
「たぶん同い年くらいだよね、いくつ?」
「十八、高三」
「うそっ、タメじゃん」
「えっ、うそ、ほんとに!?」
「あっは、すごい偶然」
 二人は目を合わせて笑いあった。
「ちょっと話す? まあ、お金ないから、そのへんに座ってになるけど」
 千晴の言葉に、愛夏は迷うことなく頷いた。

 二人は近くにあったコンビニで買った紙パックのジュースを買い、名前も知らない、大きな川沿いのベンチに並んで座った。
「へえ、福岡から」
「うん、叔父さんのお友だちのカフェを手伝ってるの」
「そのためだけにわざわざ?」
 千晴がそう言うと、愛夏は苦笑いする。
「ほんとは、あんまり東京にこだわりはなかったけど。なんか、学校とは違う世界を見たかった、みたいな」
「あー」
 ごまかしながら話す愛夏に、千晴が夜空を見上げる。
「なんかさ、息苦しいよね、学校って」
 愛夏は思わず千晴の横顔を見た。
「みんなで同じ服着て、同じ教室で同じことしてさ。大事なのは、クラスに馴染めるか、とか、成績が良いか、運動ができるか、とか、そんなのばっかり。うんざりする」
 誰かの口から、はじめてそういう感想を聞いた愛夏は、うん、と小さな声で相槌を打った。
「ちょっと、苦しかった。自分の場所って、ここには無いのかな、って。だから飛び出してきちゃった」
「こんなとこまで来るのは飛び出しすぎだけど」
「えー、そうかな」
 そう言った千晴に、愛夏は思わず笑った。
「私も似たようなもんだよ、ストリートミュージシャンしてるの。縛られたくない、っていうか、学校とはもっと違う場所を探してみたい、そんな感じ」
 千晴は少し間をおいて、空を仰いだ。
「あとは、まあ、夢、かな」
「夢?」
「うん。ミュージシャンって、ちょっとかっこいいじゃん。なってみたいなって、そんな他愛も無い夢」
「いいじゃん、千晴、かっこいいよ」
「そう?」
 千晴は少しだけ笑顔を見せたものの、すぐにうつむいて表情を隠した。
「でもさ、もうやめよっかなって思ってる」
「えっ」
 愛夏が驚きの声をあげると、ほんの一瞬だけ、沈黙が二人を包んだ。
「だってさ、熱心に聞いてくれるの、愛夏だけだし。立ち止まる人も少ない。今時、誰もこんな曲求めてないんだなって、あそこに立つたびに思い知らされる」
 ぎゅっと握った千晴の手の中、紙パックが音を立ててつぶれる。
「暗い曲とか、何かに反抗する曲とか、愚痴とか暴言とか、求められてるのはそういうのばっかり。夢とか希望とか、なんか、そんなキレイゴトって、誰の心にも響かないんだなって」
「そ、そんなことないでしょっ。愛夏、千晴の歌、好きだよ。カバーの選曲もそうだけど、オリジナルだって」
「そう言ってくれるの、愛夏だけだって」
 愛夏の言葉を遮るように、千晴は言葉を重ねた。
「『イルミネート・ジャーニー』、すごく頑張って作ったんだ。私なりに、前向きに未来のことを考えたくて、頑張って歌詞を考えて、メロディもつけた。だけど、私にとって特別な曲が、誰かにとって特別になるわけじゃない。好きって言ってくれたの、愛夏だけだった」
 ゆっくりと、しかし途切れずに話しきると、千晴は立ち上がって大きく伸びをした。
「ま、大学受験っていう現実も見ないといけないし、潮時だと思う。だから、この夏休みでやめる。SNSも消すし、もう、ミュージシャンみたいなことはしない。ふつーの高校生に戻って、ふつーの人に紛れて過ごす」
 まるで何も大ごとではないかのように、千晴は言う。それでも、愛夏は素直に千晴の言うことを受け止めることができなかった。けれども、こういう時にかける言葉を知っているわけでもない。
「歌も、ギターも、やめちゃうの?」
 愛夏の声に、千晴は一瞬だけ動きを止めて、小さな声で言った。
「それは、また考える」
 一瞬の間を置いて、千晴は愛夏のほうへ振り向き、笑顔で続ける。
「愛夏は、最後までちゃんと聞きに来てね」
 やだ。歌も、ギターもやめるなんて、やだ。
 そんな言葉を口にできるわけもなく、愛夏は黙ったまま、曖昧に頷いた。

 ・ ・ ・

「どうしたの、愛夏ちゃん」
 大雨で客足が少ない中、ひとりテーブルに座っていた愛夏に千雪が声をかけた。さっきまで雨の中を歩いていたようで、毛先が濡れてわずかに丸くなっている。
「千雪さん」
「お隣、ご一緒してもいいですか」
「も、もちろんっ」
閉店一時間前。他のスタッフは先に帰り、店内には幸広と愛夏以外、誰も残っていない。
「いらっしゃい」
「お邪魔してます、幸広くん。よければ三人でお茶しない?」
「いいね。じゃあ、今日の昼に入ったばかりの新しい紅茶をいれよう」
 幸広は三人分のティーカップと紅茶が入ったティーポット、それからチョコレートクッキーを用意し、愛夏の向かいに座った。
「少し珍しい、フランスの茶葉でね。花のような香りがするけど、味はフルーツティーなんだ。だけど、そんなにしつこい味じゃなくて、さっぱりとしていて飲みやすい」
 幸広の説明を聞きながら、愛夏は紅茶に口を付ける。シンプルな透き通った飴色のお茶なのに、その色からは想像できないくらい複雑な風味が広がる。しかし、その味は決してお互いに喧嘩しているような雑味ではなく、果物の甘みと花の香りが自然に混ざり合い、心を暖めてリラックスさせてくれる。
 やっぱり、神谷さんが淹れる紅茶が一番おいしい。このレベルにはまだまだ到達できないと、愛夏は思う。
 幸広と千雪は、愛夏の言葉を待っていた。急かすわけでもなく、何か声をかけるわけでもなく、ただ、愛夏が話し始めるのを待っていた。そのことを察していた愛夏は、心の中で言葉を探し、小さな勇気を振り絞って、言葉を紡ぐ。
「お二人は、夢をあきらめたこと、ありますか」
 愛夏が尋ねると、千雪と幸広は顔を見合わせた。
 二人はしばらく無言で考えた後、千雪が先に口を開いた。
「諦めた、とはちょっと違うかもしれないけど」
 そう前置きした千雪を、顔を上げた愛夏がじっと見つめる。
「愛夏ちゃんは、アプリコットって雑誌、知ってる?」
「名前は聞いたことあります。昔の雑誌で、たしか最近復刊しましたよね」
 千雪が小さく頷く。
「小さな頃にずっと読んでいた、大切な思い出。その雑誌が復刊する時に、特集を組むゲストを募集していて、応募してみたの」
 愛夏は驚かなかった。千雪にはそのあたりのタレントに負けないくらいのビジュアルを持っていると、ひいき目なく思っていた。
「結果、どうだったんですか?」
 愛夏が聞くと、千雪は小さく笑った。
「当然、書類選考の時点でダメ。最後はたしか、大手プロダクションのアイドルの子が選ばれてたっけ」
「えー、見る目が無いーっ」
「ふふっ。そう言ってくれて嬉しい」
 ぷくりと頬を膨らませた愛夏の頭を、千雪が撫でる。
「アプリコットは、私の大切な思い出だった。だから、何か、とびきり大きな憧れがあった。きっと、それが私にとって夢みたいなものだったのかなって、今は思うの」
 それから、千雪はちらりと幸広に目を向けた。
「幸広くんは、どう?」
「俺は高校生のころ、世界旅行をするのが夢だったんだ」
 愛夏が幸広を見る。
「高校を卒業してから、いろんな国を旅してね。ほら、あそこに飾ってある写真、あれは俺が海外旅行した国の写真なんだよ」
「そうだったんですか? すごい」
「まあ、そういう意味では俺の夢は叶ってるのかもしれないな」
 楽しそうに話す幸広に、千雪がにこにこと笑いながら言う。
「そうやって旅してたら、メキシコで追いはぎにあったんでしょ」
 千雪の言葉に、愛夏は耳を疑った。
「え、おいはぎ、え?」
「ははっ。メキシコの奥地で、命以外、全部取られちゃってね」
「えぇ……」
「だけど、運良く近くでダイナーを営業しているおっさんに助けてもらったんだ。まさに天国のようなダイナー。とくに、そこで飲んだ紅茶が本当においしくてね」
 想像を絶する話に、愛夏は「ほぇー」と感嘆の声をあげる。
「それからイギリスで紅茶の勉強をして、このカフェを開いて。幸広くんは、本当にその時に進みたい道を、まっすぐに進んでいるのよね。そういうところは、ちょっと憧れるかも」
「咲にも東雲にも、単純だって言われるけどね」
 幸広はそう言って笑うが、愛夏は幸広のことを笑わなかった。
「夢の形が変わったとしても、またその夢を叶えているような、そんな感じがします」
 愛夏の言葉に、千雪が微笑む。
 それから少しの時間、三人の間に沈黙が落ちた。幸広はティーカップに口をつけ、千雪はクッキーに手を伸ばす。愛夏は紅茶をひとくち飲んでから、言葉をつづけた。
「こっちに来てから知り合った人……友だちが、夢をあきらめようとしていて」
 千雪と幸広は、黙って愛夏の次の言葉を待った。
「愛夏は、あきらめてほしくないって、そう思うんですけど。でも、その子が言っていることも正しいってわかっていて。なんか、あきらめるな、がんばれ、とか応援したくても、それって愛夏のわがままなんじゃないかなって、そう考えちゃって」
 長く息を吐き続けるような言葉が終わり、千雪が言う。
「どうして、夢をあきらめてほしくないって思うの?」
「それは……」
 千雪の言い方は決して愛夏を責めるようなものではなく、まるで心の中に直接問いかけているかのようだった。その質問を頭の中で繰り返しながら、愛夏は答えを探す。
「その子は、ミュージシャンなんです。路上で、ギターを弾いて、歌を歌っていて。その歌も、ギターも、すごく上手で。なんていうか……心にぱっと明かりが灯るような、そんな優しさと力強さがあって」
 愛夏が千雪の顔を見る。
「あの子、きっと、好きなんです。歌も、ギターも、それを誰かに届けるのも。でも、それをやめちゃうっていうのが、ちょっと寂しいなって、そう思っちゃって……」
 思うがままに話した結果、言葉の終わらせ方を見失った愛夏は、消え入るような声でそう言った。
「やめないでほしい。そう思うかい?」
 幸広が聞くと、愛夏は頷いた。
「それなら、そう伝えてみるのは、どうかな」
 千雪の言葉に、愛夏は驚いた。
「でも、それこそ愛夏のわがままなんじゃ」
「わがままだからこそ、伝えてみることも大切だと思う」
 千雪の言葉に、幸広も頷く。
「その道を選ぶのかどうかはその友だちが決めることだ。だけど、本当に大切だと思って考えた末のことであれば、伝えてみるべきなんじゃないかな」
「そうね。それに、私とか幸広くんみたいに、夢は形が変わったとしても、きっと新しい夢を叶えることも、できるかもしれないし」
 二人の言葉を、愛夏は心の中で抱きしめながら、最後の質問をした。
「千雪さんは、アイドルとかタレントになったらよかったって、思うことありませんか?」
 千雪は一瞬だけ考えた後、小さく首を横に振った。
「正直、もしアイドルとかタレントになっていたら、アプリコットにも出られたのかもしれないって、そう考えたこともあった。でも、今の私は自分の手で何かを作って、それを手にした人が笑顔になってくれることが、幸せだなって思うの」
 気が付いたら、外の雨の音が止んでいる。千雪はティーカップの紅茶を飲み切って、笑って言った。
「きっと、違う道を選んだ私も、どこかで何かに励んでいるのかなって、そう思うことにしてる。元気でね、って、違う世界の私のことも応援してあげるの」

 ・ ・ ・

 福岡に戻る数日前、愛夏は千晴の最後の演奏を聞いていた。
 最後だからと言って、立ち止まって聞く人が特別多いわけではない。いつもと同じくらい、ときどき五、六人が足を止めたかと思うと、気付いたら二人とか三人になっていたりする。
 結局、愛夏は自分と同じように、千晴の演奏をいつも聞きに来ている人とは出会わなかった。いつも、通りすがりの人が足を止めるだけで、最初から最後までわざわざ聞きに来ているのは愛夏だけ。その事実が、千晴が言っていたことを嫌でも裏付けている。
 最後の演奏が終わり、まばらな拍手の後に聞いていた人たちが立ち去ったところで、千晴が笑いながら言った。
「おしまいだね」
 吐き捨てるような言葉とともにギターを片づけ始めたところで、愛夏は意を決して声を掛ける。
「ねえ、千晴」
「なに?」
「愛夏のお店で、歌ってみない?」
「えっ」
 千晴は手を止めて、愛夏を見た。
「クリスマスイブに、愛夏が働いてるカフェでイベントするの。その時に、一度でいいから、ステージに立ってみてほしい」
「本気?」
「本気」
「なんで?」
 愛夏は一瞬、千晴の質問の意図を掴めなかった。
「もうやめるって言ったじゃん」
「歌とギターは考えるって言ってた」
 千晴はいら立ちを見せながら愛夏に詰め寄る。
「なんでそんな必死なわけ?」
 愛夏も千晴に負けずに言う。
「一度だけ、みんな千晴の歌を聞いているんだよって、感じてほしいから」
 まっすぐな目で、愛夏がそう言う。
「千晴が、もし、自分の歌で誰かの未来を照らしたいって思っているなら、愛夏だって、千晴の道を照らしたい。わがままかもしれないけど、でも、愛夏はそれだけ、千晴の歌も、ギターも、好きだから」
 愛夏の言葉に、千晴は目を泳がせた。
「クリスマスって、愛夏来るの? 東京に」
 千晴の訝しむ表情に愛夏は一瞬ひるんだが、すぐに力強く返事をした。
「千晴が歌うなら、絶対に来る」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「約束だよ?」
「約束するから。誰も聞きに来なかったとしても、愛夏は絶対に千晴の歌を聞きに来る。だって、最後まで聞きに来てほしいって言ったの、千晴だし」
 真剣な眼差しでそう豪語する愛夏に、千晴はぷっと吹き出した。
「……いや、別にそこまで言ってないけど」
「なんでだよっ」
 愛夏が抗議の声をあげると、千晴はお腹を抱えて笑い出す。
「そこはちょっとくらい感動しろよ!」
「そんなマジになって、愛夏ほんと面白い」
「だって、だって」
「わかった、わかった」
 千晴は降参したように両手を上げた。
「一回だけだよ」
「え、ほんとに?」
「カフェのステージでしょ、それくらいやるよ」
「ほんとのほんと?」
「なんで愛夏から言い出したのに疑ってるワケ? とにかく、ほんとに次が最後だからね」
 ふと見た千晴の瞳に、微かな意志の炎が灯っているように見えた。
 それが自分の思い込みなのかどうか、その時の愛夏にはわからなかった。

 ・ ・ ・

 夏休みが終わり、愛夏は福岡へと戻った。
 それでも、心はずっとCafé Paradeにあった。
 毎日のように、凛や百合子、幸広、そして千晴と連絡を取り、クリスマスパーティのステージに千晴が立つ段取りを進めた。千晴以外にも何人かアーティストを呼び、ミニライブイベントとしてセットリストを組んだ。できるだけ予算が嵩まないように、機材や道具は、できるだけ自分たちで準備するようにした。
 愛夏はクリスマスイブにもう一度東京に行きたいと母親に頼み込み、お小遣いをため、なんとか飛行機のチケットを手に入れた。

 そして、あっという間に迎えた冬休み。十二月二十三日。
 愛夏は半年ぶりに、Café Paradeのドアをくぐった。
「愛夏!」
 凛の声に、会場の準備をしていた咲や幸広が振り返り、笑顔を見せる。久しぶりの再会を喜んだのもつかの間、すぐに愛夏も準備の手伝いに加わり、翌日のイベントに向けたステージ作りを進めた。
 日が暮れて、次にCafé Paradeのドアをくぐったのは、千晴だった。
「ほんとに来たんだ、愛夏」
 半年ぶりに愛夏の姿を見てそう言った千晴に、愛夏は得意げに笑った。
「約束したじゃん」
「まあね。それで、ステージはどんな感じ?」
「こっち来て」
 二人はまるで昨日まで普通に会っていたかのように、自然とリハーサルの準備へと進んだ。まだスタッフしかいない店内で、ギターとマイクの音量バランス、客席とステージへの返しの聞こえ方、照明を調整する。
「お客さん、来るの?」
「けっこうチケット売れてるって聞いたよ。まあ、他のアーティスト目当てって可能性もあるけど」
「それ、私歌う意味ある?」
「いーじゃん、愛夏が聞くんだから」
そんな軽口を叩きあいながら、二人はたった一瞬のステージのため、準備を進めていく。

 そして迎えた、十二月二十四日。ライブイベント当日。
 店内の席は、当日来た人を含めるとほぼ満席になった。前日の綿密な準備が功を奏し、大きな問題なくセットリストが消化されていく。
 千晴の出番のひとつ前、愛夏はステージ脇で、千晴の準備を手伝っていた。
「正直言っていい?」
 千晴が尋ねる。
「緊張してるかも」
「マジか。でも愛夏も緊張してる」
「いや愛夏は緊張しないでしょ」
「するよ! ついに千晴のすごさにスポットライトが当たってしまうんだもん」
「バカ、このタイミングでハードルあげんなっ」
 言い合っている間に、前のアーティストの演奏が終わり、千晴がステージのほうを向く。
 千晴は一瞬だけ、愛夏を見た。愛夏が強く頷くと、千晴はにっと八重歯を見せて、ステージに飛び乗った。
 ギターの音を少しだけ鳴らしてから、千晴が手を上げると、客席の照明が落ち、BGMが消える。
 すぅ、と息を吸う音に続き、ギターと、歌声が瞬く間に店内を満たす。
 もうすっかり歌い慣れた、誰もが知ってる有名アーティストのカバー曲。それなのに、歌いだしの声は微かに震えていた。よく見たら、千晴の足も、手も、微かに震えている。愛夏はステージの前に移動して、祈るような面持ちで千晴を見た。
 一曲目が終わる。店内はすぐに拍手で包まれる。少なくとも、路上で愛夏が聞いた時よりは、ずっとあたたかくて、大きな拍手。千晴は緊張がほどけた顔で、嬉しそうに笑った。
「こんばんは。春風千晴です。次、オリジナルソングです。聞いてください」
 淡々とそれだけ言って、千晴はまたすぐに、歌いだしの体勢に入る。
 誰もが通り過ぎる街で、何度も、何度も聞いた曲。
 歌詞も覚えて、ときどき口ずさんだりして、心に刻んできた曲。
 愛夏は、その曲がステージの上で照らされる千晴から紡がれるのを、幸福に満ちた気持ちで聞いていた。

 ・ ・ ・

「正直に言うとさ」
 千晴が言う。ライブイベントが一通り終わった店内は明るくなり、ステージの上では咲がカフェの閉店時間の案内をしている。すでに半分ほどの客が帰ってきて、千晴と愛夏は空いているテーブルに座っていた。
「舐めてた、最初。どこで歌ったって変わんないし、ましてただのカフェのステージだしって、そう思ってた」
 愛夏は千晴の言葉を黙って聞いていた。
「路上で歌ってたらさ、まあ、立ち止まってくれる人もいるけど、大多数は目の前を通り過ぎていくわけ。ちらっと見る人もいれば、見向きもしない人もいる。うつむいたまま、元気無さそうに、通り過ぎる人もいる。そういう人にこそ聞いてほしい、そう思っても、絶対に私の歌は届かない」
「今日はどうだった?」
 愛夏が聞く。その答えはわかりきってる。
「届いたのかな、って思う。そうだったら嬉しい」
「ね」
 二人は目を合わせて笑った。
「ま、それでもミュージシャンは目指さないけど」
「えーっ!」
 愛夏の声に、千晴は悪戯っぽく笑う。
「でも、歌とギターは続けるよ。なんか、大学のサークルとか、こういうとこで好きなようにやるのも、いいなって思うし」
「なにそれ、めっちゃいいじゃん!」
 思ってもいなかった千晴の言葉に、愛夏は興奮気味に言った。
「歌もギターもすっごいうまいんだから、やめたらもったいないって!」
「やーめーろ、ストレートに褒めるな恥ずかしい」
「だってほんとのことだし」
 千晴は照れ隠しに、コーヒーカップを仰いだ。
「別にさ、ミュージシャンにこだわらなくても、誰かひとりにでも聞いてもらえたら、それでよかったんだなーって」
 千晴が優しい眼差しを愛夏に向ける。
「今日、たくさんの人に聞いてもらえたのも嬉しかった。けど、愛夏が聞いてくれてただけでも、本当は幸せだったんだなって、そう気づけた」
 千晴の言葉にくすぐったくなった愛夏はうつむいて、ソーサーの縁を指先でなぞった。
「だから、ありがとう、愛夏」
「ふふん、どういたしまして」
 得意げな顔をする愛夏を千晴が軽く肘で小突き、二人は笑いあう。

「そうだ、愛夏も歌ってみなよ」
「えっ?」
「知ってるよ、私の歌に合わせていっつも歌ってんの。聞こえてないって思ってたのかもしれないけど」
「なんで? えっ、えっ」
 千晴が立ち上がり、愛夏の手を取る。
「まだセッティングしてあるしさ、一曲くらい歌ってもいいって」
「えっ、いや、むりむり、むりだって」
「むりじゃない」
 千晴に手を引かれるがまま、愛夏がステージの上に立つ。気づいたらどこから集まったのか、目の前のテーブルにはCafé Paradeのメンバー、そして凛、百合子、千雪が待ち切れない様子でステージの上の愛夏に注目していた。
「いや、だって愛夏、こんなステージで歌ったことないし」
「カラオケだと思えばいいじゃん、ほら」
 渡されたマイクを思わず受け取ってしまう。千晴はギターを抱えて、手早くチューニングを合わせた。
「ほら、『イルミネート・ジャーニー』。入り、わかるでしょ?」
 そう言いながら、慣れた手つきで千晴がギターをかき鳴らす。見知った人たちが、手拍子まで始めてしまう。
 逃げられない。愛夏は覚悟を決めて、大きく息を吸った。


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