思い返してみても、きっかけなんてわからない。
中学生になったあたりから、言葉にできない違和感を愛夏は抱いていた。
自分が知らない人間関係。気付けない流行。聞かせてもらえない内緒話。
同じひとつの教室にいるはずなのに、まるで自分だけが、世界からはみ出しているように思える。
私と他の人は、何かが違う。
少なくとも、それだけは愛夏も理解していた。
それは最初、目に見えないくらい小さな傷だった。けれども、成長とともにその小さな傷がいくつも重なり、やがて大きな溝となって愛夏の心に横たわった。
その心の溝が一番深くなったのは、高校三年生の夏休みを迎える直前。女子トイレでたまたまドアの外から同級生の話し声が聞こえてきた時。
「なんか、近寄りにくいよね」
「ちょっとヘンな子って感じ」
「でも友恵、灯里さんと仲良くない?」
自分の名前が聞こえたことよりも、友人の名前が出てきたことにもっと驚いた。
友恵。クラスメイトの中でも、数少ない友だちのひとりだと思っていた女の子。高校に入ってすぐ、まだ緊張感が残る愛夏に、彼女はたくさん話しかけてくれた。女子たちが作った閉鎖的な輪に入れなかった愛夏のことを、気にかけてくれていた。
そんな、いつも聞き慣れた声が、信じられない台詞を吐く。
「別にそんなことないけど」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がずきんと痛み、愛夏は思わず胸を掴んだ。
なんで。どうして。
その後、友だちだった人がどんな話をしていたのかなんて覚えていない。
ただ、ずきずきとした胸の痛みだけが、愛夏の手の中に残り続けた。
・ ・ ・
叔父から愛夏のもとに電話がかかってきたのは、夏休みに入る二週間前だった。
「Café Parade?」
「そう。知り合いが東京でやってるカフェだ」
愛夏は叔父の仕事のことを、東京を拠点にしたフリーランスで、あちこちでいろいろな企画を立ち上げている、程度にしか理解していない。けれども、年に数回、電話で話すたびに愛夏のことを一番気にかけてくれているのが叔父だった。
「店を大きくしたとかで人手を探していてね。愛夏、やってみないか?」
「カフェで働くってこと? 東京で?」
突然の誘いに、理解が追いつかず聞き返してしまう。
「夏休みの間、人手が見つかるまでのヘルプで入ってほしいんだ。もちろん交通費もお給料も出るし、こっちで暮らす場所は準備する」
東京。テレビとか雑誌の中で目にする街。憧れみたいなものはあったけど、そんなにすごく行きたかったわけでもない。福岡での生活は心地良いし、ときどき不便なことはあっても、不満に感じることはほとんどない。
そんな中で、東京という新しい場所で生活する自分をうまく想像できずにいる。
「それに、愛夏。気分転換にもなると思う」
叔父の言葉に、体がぴくりと震える。
「なんかあっただろ、学校で」
「……バレた?」
「わかるさ」
あの友人の言葉が脳裏をよぎる。心臓が、ちくりと痛む。
別に、大したことじゃない。まったく友だちがいないわけじゃないし、暴力を振るわれるとか、いやがらせをされるとか、そんな深刻な何かをされたわけでもない。
他の人から見れば、些細なことなのかもしれない。それでも、あの友人の言葉は、愛夏の心に深い傷跡を残している。
愛夏が息を呑んで言葉を探しているうちに、叔父が言葉を続けた。
「別に言いたくないなら言わなくていい。ただ、夏休みくらい違う環境に身を置いてみるのも悪くないと思うんだ」
叔父は愛夏のことをよく知っていた。学校で感じる違和感のことも、何とも言い難い疎外感のことも。何か出来事を直接話したわけではないけれども、愛夏の心の傷を知っていた。
「大丈夫、世界は広いぞ、愛夏」
叔父の言葉に、まだ見ない町、知らないお店を想像する。
そこには、本当に私の居場所があるだろうか。
今、この狭い世界の中で見つけられない自分を、見つけられるだろうか。
そして、こことは違う世界で、誰か自分を待っている人がいるのだろうか。
「もちろん、無理にとは言わないが」
「叔父さん」
まだ、迷っている。もしかしたら後悔するかもしれない。
けど、やらないよりも、やってみて後悔したほうがいいと、直感がそう言っている。
「行ってみたい、CaféParade」
その言葉は、愛夏の旅路を大きく変えるひとことになった。
・ ・ ・
バス、電車、飛行機、そしてまた電車。
一日にこんなにたくさん乗り物に乗るのは、生まれてはじめてかもしれない。
愛夏は事前に母親と一緒に調べた乗り換えルートと地図を、何度も何度も見返しては、ひとつひとつの乗り換えをこなしていった。
頑張って朝八時に家を出たものの、Café Paradeの最寄り駅に着くころにはもう昼過ぎになっていた。
(駅まで着いたら、お迎えの人がいるって聞いたけど)
まったく知らない駅の改札を出て、あたりを見回す。
ふと、バス停の近くに立っていた少女と目が合う。黒く長い髪に、落ち着いたたたずまい。愛夏の目には少なくとも同い年か、あるいは年上、大学生にも見える。
その少女は愛夏から目を逸らさずに歩み寄ってきた。近づいてくるほどにはっきりとする、大人びてりんとした雰囲気に、愛夏は思わず後ずさった。
「もしかして、愛夏ちゃん?」
「は、はいっ」
緊張した面持ちの愛夏に対し、少女は優しく笑って言う。
「はじめまして。私、渋谷凛。お迎えに来ました」
あ、と声を上げた瞬間、愛夏は慌てて自己紹介をする。
「灯里愛夏です! よろしくお願いします」
深々と頭を下げた愛夏を見て、凛はさらに笑った。
「ふふっ、緊張してる?」
「あの、えっと、ちょっとだけ」
これが、東京の女の子。ザ・シティガール。愛夏の心に感動に近い喜びが広がる。
「もうすぐバス来るから、とりあえず乗ろうか」
「はい!」
二人で揺られるバス。まだ日は高く、窓の外から強い光が車内へと降り注いでいる。外の暑さに反して冷たい空調の風が、凛の長い髪をふわふわと揺らす。
「愛夏ちゃんは高校生?」
凛の低く落ち着いた声が、愛夏の緊張を微かにほぐす。
「はい。高校三年生です」
えっ、と凛は目を見開いた。
「あの、私、高一」
「えっ、年下!?」
凛は申し訳なさそうにうつむいた。
「すみません、まさか年上だとは思わなくて」
「うわあっ、いきなり敬語にならないで! タメ口でいいから!」
慌てて言う愛夏に、凛は「うん」とあいまいに返事をする。
しばらく気まずい無言の時間が二人を包んだものの、ふと、愛夏は凛を見た。
「……っていうか、それって愛夏が年下っぽく見えたってこと?」
「いや、別にそうじゃなくて」
凛が慌てた様子で手を振る。さっきまでのりんとした態度から一転して、どこか子供らしく見える仕草に、愛夏の中に悪戯心が芽生える。
「えー、ショックー。愛夏、そんなに子供っぽく見えるかなあ」
「子供っぽくないって! ただ、なんていうか、可愛い子だなって思っただけ」
可愛い、という褒め言葉に、愛夏の頬が思わず緩む。
(えへへ、可愛いって言われちゃった)
心の中できゃあきゃあとテンション高く騒ぎながらも、表向きはなんとか冷静を保とうとする。けれども、一度緩んでしまった頬はなかなか元に戻らない。
「愛夏ちゃんは、どうしてあそこで働こうと思ったの」
凛がまだぎこちなさそうな口調で尋ねた。
「店長さんが叔父さんの知り合いだって紹介されて」
そこまで言って、愛夏はどう説明しようか迷ったものの、正直に話してみることにした。
「それで、ちょっと、違う世界に行ってみたいな、って思って」
「違う世界?」
「うん。学校で、ちょっと息苦しいというか、なんていうんだろ、自分の場所がない、って思っちゃって。だから、外の世界を見てみたいって思ったの」
変なことを言ってしまったかと思い、愛夏は恐る恐る凛を見る。しかし、凛は愛夏に変な目を向けることなく、むしろ優しく笑って答えた。
「わかるかも」
「えっ」
「私もそう思ってたどり着いたのが、あの場所だったから」
さっきまでとは違い、またどこか大人びた表情になった凛を、愛夏はぼうっと見上げた。それと同時に、今まで感じたことがない、不思議な安心感を覚えていた。
「次、降りるよ」
そう言った凛が降車ボタンを押す。聞き慣れない自動放送の声が、次のバス停で停まることを車内に告げた。
・ ・ ・
バスを下りてから、さらに歩いて五分ほどの場所にそのカフェはあった。
洋館風の二階建ての建物で、ぱっと見は小さな城のようにも見える。
「すごっ、きれいな建物!」
「でしょ。中も素敵で居心地がいいから、つい毎週通ってるんだ」
「えっ、凛ちゃん、ここの店員さんじゃないの?」
凛が首を横に振る。
「ただの常連客。だけど、今日新しい人が来るからお迎えしてきて、って頼まれちゃって」
「自由だなあ」
「でしょ」
苦笑いした凛が両開きのドアを押し開けると、からんからんとベルの音が響く。凛の背中に続いて、愛夏も店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいま……あ!」
凛の背中越しに目が合ったのは女の子。チョコレート色のツインテール。白黒の給仕服に、ふりふりの可愛らしいカチューシャをつけている。
「まなかちゃんだよね!」
「は、はいっ」
「私、水嶋咲! Café Paradeにようこそっ。かみやーっ、ロールー! まなかちゃんきたよー!」
咲は名前だけ告げると、すぐに厨房の奥に向けて誰かの名前を呼んだ。その声に反応して、店の奥から二人の男性が出てくる。一人は高校生くらいの男の子で、片手にケーキが二つのった皿を手にしている。もう一人は愛夏たちよりも年上に見える男性だった。
「待ってたよ、無事に着けたんだね」
男性が愛夏にそう告げる。凛のおかげで緊張感が少しだけほぐれていた愛夏は、しっかりとお辞儀をしてから自己紹介をした。
「はじめまして。今日からお世話になります、灯里愛夏です。よろしくお願いします!」
「よろしく、愛夏さん。俺は神谷幸広、ここの店長だ。こっちは卯月」
「卯月巻緒です。ケーキのことならなんでも聞いて!」
歓迎されている。少なくとも、今は。まだ体は強張っているものの、愛夏の心にさらに安心感が生まれる。
「本当はあと二人いるんだけど、今日はキッチンのメンバーが休みでね」
「えっ、そうなんですか?」
「そ。だから今日は紅茶とコーヒーだけ出す日なんだー」
あっけらかんとした咲の言葉に、そんなことあるんだ、と愛夏は内心驚く。
「そんなわけだから、本格的に仕事を教えるのは明日からだな。今日は疲れてるだろうし、ゆっくり休むといいよ」
「え、でも」
今日から全力で頑張るつもりだった愛夏は、やや面食らう。
「人が少ないなら、手伝ったほうがいいんじゃ……」
「大丈夫、大丈夫。明日から頑張って、ね?」
咲の言葉に、愛夏は曖昧にうなづく。
「灯里……いや、君の叔父さんから、これを預かってたんだ」
そう言った幸広が、愛夏に封がされた封筒を手渡す。開けてみると、中には家までの地図と、家の鍵、そして叔父からのメッセージカードが入っていた。メッセージカードには一言、「がんばれ」とだけ無骨な手書き文字で書かれていて、愛夏は思わず笑ってしまった。
「少し休んでから行くといいよ、いま紅茶を入れるから」
「ちょうどケーキもあるし!」
「あたし、クッキー取ってくるね!」
賑やかな三人が店の奥へ行くと、愛夏は凛と目を合わせた。
「いいところでしょ」
凛が笑いながら言った。
結局、愛夏は三人の言葉に甘えて、カフェで休憩したあと、そのまま家へと向かうことにした。凛と一緒に来た時と逆方向のバスに乗り、駅前に着く。愛夏の家はここからさらに数駅ほどのところにある。
「それじゃあ、私こっち方向だから」
改札を抜けてから、凛が愛夏に向き合って言った。
「ありがとう、凛ちゃん」
「どういたしまして。頑張ってね、愛夏ちゃん」
そう言って踵を返したところで、一瞬立ち止まった凛が、再び振り返る。
「ねえ」
「?」
愛夏が首をかしげると、凛はわずかに目を伏せてから、不器用に笑った。
「愛夏、って呼んでいい?」
凛の質問に、愛夏は胸の奥を撃ち抜かれた感覚がした。ずっと大人びていた凛が照れ隠しに笑いながら言った「愛夏」という言葉が、頭の中で反響する。
「もちろんっ! むしろ、愛夏って呼び捨てて!」
「いや、その言い方はちょっと、なんか違う意味に聞こえるけど」
前のめりになる愛夏に対して、凛は少し後ずさる。
「じゃあ、またね、愛夏」
そう言って手を振った凛が、駅のホームへの階段を下りて姿が見えなくなるまで、愛夏は口角を上げたまま手を振った。
それから愛夏も、新しい家へと向かう電車に乗り込み、ロングシートに座って一息つく。
(良い子だったな、凛ちゃん)
ようやく高鳴っていた心が落ち着いてきたところで、ぼんやりと、今日一日あった出来事を思い返す。
(仲良くできるといいな、凛ちゃんも、みんなとも)
愛夏はそう願いながら、きゅっと手を握り、窓の外を流れていく知らない景色を見つめていた。
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